|
この学校訪問は「みやぎ青い目の人形を調査する会」のみなさんによって準備され、援助していただいて実現しました。この会の30人の会員たちは過去二年間にわたって、宮城県に贈られた青い目の人形の歴史を調査し、その成果を出版し、さらに授業の教材を作るのに大変積極的な活動をしてきました。例えば、この夏三人の会員は仙台歴史資料館によって出版された研究誌に写真つきの40ページに及ぶ記事を載せました。今、この会はアメリカの子どもたちから日本に贈られた、たくさんの「青い目の人形」の返礼として1927年にアメリカに送られた「ミス・宮城」の来春の里帰りの準備で忙しい最中です。

(写真説明:校長ならびにメリーという名前の「青い目の人形」と一緒に)
村田第四小学校への訪問は、1927年以後「青い目の人形」を所有している、宮城県の学校を訪れる5回目の訪問でした。昨年11月に私は桃生小学校、三本木小学校、広渕保育所、川渡小学校を訪問する機会があったのです。みやぎ生協で県内の文化活動の促進にあたっておられる佐藤修司という方が、去年と同じく今年も、車で私を学校訪問に連れて行ってくれましたし、雫石 顕さん、とも子さんご夫妻が、100年以上前に建てられた古い農家のご自宅に泊めてくださり、お陰で私は、ご夫妻の田んぼで作られたお米や、牡蠣や、牛タンを火であぶって調理したものを、おいしく味わう機会を得ました。雫石さんの奥さんは、村田第四小学校への訪問を手伝ってくださいましたし、また、彼女ならびに「みやぎ青い目の人形を調査する会」は、一年以上にわたって、たくさんの情報と、私の「友情の人形ウェブサイト」に利用できる写真とを提供してくださいました。

(写真説明:市松日本人形〈左〉、メリーという名の「青い目の人形」〈中央〉、「ミス・みやぎ」という名の友情の日本人形〈右〉)
私の学校訪問は校長室で始まりました。校長先生は、第二次世界大戦中に壊されないように隠されていたメリーという名前の、「青い目の人形」と、それと一緒にしてあった日本人形とを見せてくださいました。その二体の人形は齋藤さんという用務員さんによって、1946年に一緒に発見されたのですが、彼は時々ケースの中に防虫剤を入れたり、また時にはケースから出して風にあてたりして、保存に大変注意を払っておられました。今は、人形は二体とも、特別なケースに入れられて校長室に展示されています。前の年度の、六年生の生徒たちが、校長室の前にかかっているかわいい標示を描いてくれていました。その標示には、校長室に展示されている二体の貴重な人形の絵も入っています。校長先生は私に「メリー」の歴史に関するパンフレットをくださいました。

(写真説明:私たちの習字)
楽しい校長室訪問の後で、六年生11人の習字の授業に参加しましたが、そこでは、日本語の三つの文字「まつり」、つまりフェスティバル(祭り)、という文字を書かなければなりませんでした。先生は、この町で二日後に特別なお祭りがあるので、この言葉を選んでくれたのです。この授業は、私にとって墨と筆で日本語の文字を書く、わずか二回目のことでしたので、わずかな時間で何枚も書き上げたのですが、みんな屑篭行きでした。授業の終わりに、全員の一番いい出来の作品を前の黒板に展示しました。この難儀だけれども楽しい授業の後、生徒たちの作品と私のが、大変良く合っているように見えたので、嬉しかったです。
六年生の、次の時間のテーマは「友情の人形」の歴史ということでした。私たちは10〜15分くらいの、学校が製作してあったメリーの歴史についての、ビデオを見ることから始めました。この良く出来たビデオは、わずか2〜3年前に作られたのですが、1927年には200体以上受け取られていたにもかかわらず、宮城県にはたった4体の「青い目の人形」しか残っていないことを紹介していました。生徒たちは、そのビデオが作られてから、さらに4体の人形が見つかったことを知って驚いていました。雫石さんは、人形を最初に受け入れた、たくさんの学校と連絡を取って、それから人形が受け入れられた1927年当時、その学校にいたお年よりの人たちと会って、人形を探している「みやぎ青い目の人形を調査する会」の努力について、説明しました。次に私が、「友情人形」について生徒や先生からの質問に答え、それから「ミス・宮城」の写真を生徒たちに贈りました。その写真は20年位前に、その人形を手に入れたカンサス州に住んでいるマーガレット・コルベットさんという女の人からの贈り物でした。私は次の手紙を生徒たちに読んであげました。

(写真説明:六年生の生徒たちとの話し合い)
村田第四小学校の皆さんへ
1927年の、この美しい「友情大使人形」が、私に与えられたことを感謝しています。「ミス・宮城」は1928年に「日米友情大使」として日本からカンサスにやってきました。「ミス・宮城」は今でもアメリカの子どもたちに喜びを与えています。今年「ミス・宮城」は、他の四つの人形、つまり「ミス・北海道」や「ミス・三重」たち、と一緒にカンサス州の隣の、ミズーリ州の特別展で「姉妹大使人形」として展示されました。
アメリカの「青い目の人形」と日本の「友情大使人形」は友情と平和の貴重なシンボルです。私たちはいつも、「ミス・宮城」をしっかり世話していきたいと思っています。
「ミス・宮城」の写真を、あなた方の学校の「青い目の人形」の脇に置いてくだされば嬉しいです。
マーガレット・コルベットとビル・ゴードンより

(写真説明:「ミス・宮城」の額に入った写真を受け取る生徒)
授業で、私は次に、アメリカ人の多くは、1927年にアメリカの子どもたちから日本に贈られた「青い目の人形」のようには、青い目と白い肌をしているわけではないのだ、ということを生徒たちに説明しました。アメリカ人の先祖は世界各地からやってきていて、現在でも、アメリカはアジア、メキシコ、南アメリカなどからたくさんの移民を受け入れています。私たちはまた、アメリカのアフリカ系アメリカ人や、先住アメリカ人や、その他の人々に対する人種差別や偏見の歴史についても、短時間ですが、話し合いました。
殆どの日本の小学校生たちは、自分たちの教室でお昼を食べるのですが、村田第四小学校の56人の生徒たちは全員一緒に食べます。これは多分学校規模が小さいためだと思います。午後早く、六年生の生徒たちは刀(もちろん本物ではありません)を使って踊る美しい日本の伝統芸能の踊りを練習するために体育館を使いました。
(写真説明:校長室前に掛かっている人形の標示)
テレビの地方局のカメラマンたちが、私が学校に入るとき私に挨拶しました。そして午前中ずっと私と一緒にいつづけました。私は、他の人と話しているとき、その人たちのことを忘れていたのですが、おぼつかない手つきで墨と筆を使って日本語の文字を書く私に、カメラが迫ったのは冷や汗ものでした。また、私が六年生の生徒たちと話し合っている最中に、2〜3人の生徒にインタビューしてもいいかと私に聞いてきたのにも、少々慌てました。このときには、私も含めて他の人たちは一息入れて、私は生徒たちにハロウイーンのカボチャのお面を見せて、フランケンシュタインやお化けや、ドラキュラの形をしたハロウイーンのチョコレートを配りました。
その日の最後に、校長先生が私に「布袋様」という名前の、特別な人形をくれましたが、それは村田町の特産品でした。「布袋様」というのは七福神の一つで、村田町では、10月の末に「布袋祭り」をするのです。六年生の担任の先生は「どらえもん」の大ファンなのですが、「どらえもん」というのは22世紀からやってきたネコ型ロボットで、「のび太」という少年が災難から抜け出すのに必要なときには、その「どらえもん」のおなかのところにある「四次元ポケット」からいろんな秘密の道具を引っ張り出すことができるのです。彼女は私に、台詞が英語と日本語の両方で書いてある、「どらえもん」の漫画本を二冊くれました。東京までの列車や東京の地下鉄その他で、殆ど立っていなければならなかったのですが、その間にこれらの漫画本を読んで時間をつぶして、私は日本を発つ前に読み終わってしまいました。

(写真説明:マスター・ピザのシェフ〈右端〉、雫石さん〈右から二人目〉、生協の佐藤氏〈左端〉と一緒に)
村田第四小学校を訪問することが宮城県に行く主な目的だったのですが、他にもいくつか特筆すべき事柄がありました。
ピザ ― 私たちは、障害者たちのコミュニティセンターとつながっている、ピザとパンのレストランに行きました。多分何日も続けて日本食を食べ続けていたせいかも知れませんが、このピザは今まで食べたうちで一番おいしいものでした。そのピザはかまどの上の大きなレンガのオーヴンで焼くのですが、私はさらに、テーブルごとに置かれている「香味オイル」を少々加えました。
そのレストランの従業員の人たちは大変友好的で、私たちが車で出発するまで、レストランを出てきて手を振ったりおじぎをしたり、してくれました。次の日の朝食では、そのレストランのパンを味わったことでした。
味明幼稚園 ― 雫石家の近くにある幼稚園に、アメリカからの挨拶のためとハロウイーンについて話すために立ち寄ったのですが、その後、外で三本の大きな水洗い場で、いくつかとても大きなサツマイモがあったのですが、それらのサツマイモを洗って楽しかったです。

(写真説明:味明幼稚園の子どもたちや先生方と一緒に)
松島 ― 宮城県の県庁所在地仙台から程近い、松島の海岸からの眺めは日本三景の一つです。けれども夕方でしたので、あまり見ることは出来ませんでした。
地ビール ― この土地で醸造されたビールを味わってみましたが、とても美味しくて明らかにバナナの香り(少なくとも私にとっては)がしました。アメリカに比べて、日本の地ビールの種類は限られていて、大体は高い値札(普通の瓶で、5ドル)がついていました。
丸森図書館の人形 ― 丸森という小さな町の図書館には、鍵の掛かった金庫があって、宮城県で見つかった8体の「青い目の人形」の一つが入れられています。この人形は現在、髪も、また頭頂の穴も無く、残念な姿をしています。下着と靴以外はなにも身に付けていないのです。
丸森町役場 ― 丸森第四小学校を訪ねた後、佐藤岩雄氏に会うために丸森町役場に立ち寄りました。佐藤氏は、宮城県の人形の調査をする上で雫石さんに提供してくれた、膨大な量の「友情人形」に関する情報を持っていた人です。彼は私に、野口雨情という人についての本をくれたのですが、その野口という人は、1927年にアメリカによって日本に贈られた12,739体の一つひとつに対して、日本で使われる言葉になった、「青い目の人形」という歌を書いた人です。その本には野口雨情によって書かれたたくさんの童謡の背景が書かれており、また彼の歌のCDもついています。
(写真説明:金山図書館の人形)
香川からの小包 ― 私が宮城県の仙台駅に着いた後で、私たちは車で仙台歴史資料博物館にいきましたが、そこでは「みやぎ青い目の人形を調査する会」が例会を開いていました。そこの館長さんには前の年に訪れたときお会いしたことがあったのですが、その館長さんが松田達也氏、この人は香川県に在住で、お会いしたことはありませんが、その松田氏からの思いがけない小包を渡してくれました。その小包には、「青い目の人形」に関するたくさんの資料と、高知、愛媛、兵庫各県の三体の「青い目の人形」の写真がたくさん入っていました。
牛タン ― 「牛タン」というのは仙台市の特産物の一つで、鉄道の駅でそれが入っている弁当を買うことさえできます。滞在中、美味しいのを二度食べました。到着した晩に、雫石宅で、火で炙ったものを食べましたし、また、宮城県を発つときに、駅の反対側にあるレストランでも食べました。自分たちは昼前だったので、5分足らずしか待ちませんでしたが、食べている間にそのレストランの前には行列が出来ていました。20人くらいの人々が雨の中を、仙台特産の美味しいものを食べようとして立って待っていたのです。
(写真説明:伝統芸能の踊りのために盛装した六年生たち)

(写真説明:刀を使う伝統芸能の踊りを練習しているところ)
|