●更新日 2013/03/26


●実際の生出・赤石地区の歴史など色々な資料に基いてまとめました。是非ご覧下さい。

『赤石の昔』002号

日ごろ見落としてしまいがちな、自分達の住んでいる町の名所・旧跡を、これからご紹介して行きます。


■太白区の伝説 ○昔話・世間話・伝説 ○語り伝える

 もしも、毎日がわくわくしていられたならどんなにか幸福な人生だろう。子供の頃に聞いた、おばあさんの話に心躍らせた時のことを思い出してください。今思えば、何処にでもある小さな話かもしれないが、その時の感動は、体全身が、憶えているに違いない。それが今の子供たちも味わえたならどんなにか豊かな心を取り戻すことだろう。私たちは、昔話を本に依存することなく愛情ある言葉を以てこのわくわく感を伝えてゆきたいものである。

○私たちの暮らしとともに生きてきた太白区の伝説

 太白区の中でも、シンボルとなる太白山の伝説は多い。昔は、生出が森・烏兎ヶ森と呼ばれ、今もなお数多くの昔話や伝説、ロマンに彩られている。「夕暮れに山に入ると、狐に化かされるぞ」子供の頃に聞いたおばあさんの言葉を思い返せば、そこには子供に対する愛情や教育、いましめがあった。「暗くなったら山で遊ぶのは危険だ、早く家に帰りなさい。」祖母はそう云っていたに違いない。そんな昔人の愛情あふれる昔話は祖母から母へ、母から子へ語り継ぎこれからも大切にしたいものである。そして、今、おとなが子供たちに残したいのは語り継がれた話を元に奇想天外な発想や柔軟性をもった想像力、夢をみる素晴らしさではないだろうか。そんな想いを巡らせながら純粋無垢な静かな心で昔話の一頁をひらいていただきたい。

南赤石 茂庭 坪沼
南赤石観音堂の由来

お篠峠

名剣士「松林蝙也斎」

生出が森

太白山の大男

生出が森と独活の大木

殿様と太白山

生出が森の狐

蛇の抜けがら

蛇の恩返し

生出が森と亀が森の喧嘩

八幡講の由来

片目の神様

茂庭・網木山

蕃山

田螺の旅

大仏岩

お六尺の勘兵衛さん

大仏堂の大蛇

十三塚


生出が森【太白山】 昔、茂庭の村にオトアという美しい娘が住んでいた。ある晩のこと、夜中にオトアが厠に起きたところ、ゴーッという地鳴りのような音が聞こえてきた。オトアは不思議に思って、その音のする方を見たら何と目の前で大きな石や黒い土のかたまりがむくむくと夜の空に向かって盛り上がっているところだった。大きな石や黒い土のかたまりは首でも振るように低い地鳴りをさせながら、どんどん盛り上がって小さな山からだんだん大きな山になっていった。オトアは吃驚して思わず「あれえっ、とんがった山になっていくー」と、大きな声を出してしまった。美しいオトアの声にびっくりした山は、恥ずかしくなったのかむくむく盛り上がっていくのをぴたっとやめてしまった。

 ちょうど、オトアに見られた山がむくむく盛り上がっていた時、志田郡の鹿島台の辺りがへこんでしまった。そこが品井沼だということだ。

 生出が森は、駿河(静岡県)の富士山と同じころに出来た山なので、このことを聞いた村人たちは「もしも、オトアに見られなかったら、富士山よりもっともっと高い山になったのに」といって残念がったそうだ。

 太白山は、一晩のうちに生い出たので「生出が森」と呼ばれるようになった。また、娘の名にちなんで「オトア森」ともいわれている。

私達の街太白区 太白区は、仙台市の南西に位置している。面積は、二百三十キロ平方メートル、約二十万人の人々が住む。

 名取川に沿って東西の帯状に伸びる形をしており、豊かな自然と温泉に恵まれた秋保地区。住宅団地が連なる茂庭、八木山等の丘陵地帯、仙台市地下鉄及びJR東北線を中心に商店、工場、住宅が立ち並び、都市型農地が広がる三つの地域に分けることが出来る。また、太白区は、東京、山形方面への玄関口で、近くには仙台空港もある。特に長町地区は仙台市の南部副都心として整備され、その発展が期待されている。


太白見聞録

烏兎が森

 大昔、この地に住んでいた人達は太白山のことを烏兎が森と呼んでいたという。烏兎が森の()カラスは「日」()ウサギは「月」のことで「日月岬」という神秘な山として、崇拝していたと伝えられている。


生出村の誕生 茂庭は、文治の役で手柄をたてた河村四郎秀清が守護職として支配していた所であった。明治二十二年町村制施行の際、茂庭と坪沼の二つの村を合併して一夜で生まれでたという太白山の別称である「生出が森」の山名を取り入れ「生出村」となった。

南赤石観音堂の由来 昔 南赤石に正直で慈悲深き農夫有 夏の頃には毎夕馬を名取川に浴せむ 或る夕例の如く馬を川に入れてふと川底を見るに光り輝く物あるを見ておどろき 家に帰り一部終始を話せしに 家族怪しみて川に来り見るに何の変わりしこともなし 翌夕再び馬を川に入れて川を見るに光輝くこと昨夕に倍したを見て益々驚き家に帰る

 寝に就く夢に観世音の示現有り 翌朝斎戒をして川に入り金光輝く仏像を拾い上げ恭しく之を川の中程にある突き出せる石に安置し 故にこの石を座石と称せらる 後に宿民之れを訛ってザル石と云う 更に農夫の家の神棚に奉仕せるも神徳を汚さんことを畏れ赤石山円通寺に奉遷せり円通寺は頼光院高山家の先祖なり偶々慈覚大師開山の爲地所ご選定にて暫く円通寺に足を留められし際 

 住僧観世音の寺跡を話せしに 大師仏像を拝され御尊像は世にも稀なる十一面観世音なれば堂宇を建立して奉祠せよといわれる 宿入等と計り赤石山の上方高地を選び堂宇を建立せり 観音堂の宝物の内に日本独鈷の一つがある 他に高野山金剛峯寺に一つ 山寺立石寺に一つあるを謂う 独鈷の長さ五寸位で甚だ重く質の何であるかを知る人なし この独鈷をもってもって祈祷すれば如何なる難病も快癒すると伝えられ 珍重されている 巷間に伝わりし伝説を記したものである

お篠峠 昔、赤石にお篠という気立ての優しい娘御がおった。ある日のこと、お篠は用事が出来て隣村の碁石に行くことになった。赤ん坊をおんぶして上り下り八町もある峠道を超えて行かなければならなかった。やっと峠を上りつめた所の木の下にみすぼらしい衣をまとった坊さんが倒れていた。痩せこけて苦しそうな様子だった。「お坊さんどうしたのっしゃ」と声をかけたら、かぼそい声で「水を恵んで下さらんか、水をー」といったので、お篠は抱き起こして竹筒の水を飲ませてやった。「どなたか存ぜぬが、かたじけない、有り難い事じゃ」といって、また力なく横になってしまった。お篠は坊さんを何とか助けたいと思ったのか、後ろを向いて自分の乳をしぼり少しずつ竹筒にため始めた。「お坊さん私の乳だけど飲んでけさいん。なんぼか元気出っぺがらー」と飲ませてやった。坊さんは、コックンコックンと目を細めながらうまそうらに飲んだ。お篠は、次の日も、また次の日も乳をしぼって峠道を通って飲ませてやった。けれども、坊さんは段々痩せて行くばかりだった。そうしたある日、坊さんはお篠の顔をじっとみながら、低い声で「そなたは、拙僧にとって御仏の使者じゃこれを、お礼に差し上げたい」と、懐から金包みを取り出し無理矢理お篠に渡して息を引き取った。お篠は泣きながら村に戻り、村人に相談してみんなで坊さんの墓を建てて供養してやった。その後、村人達はその墓のことを乳考が墓と呼び、この峠をお篠峠というようになった。

名剣士「松林蝙也斎」  今から二十年ほど前まで、片平の東北大学正門のあたりを「道場小路」と呼んでいた。三百五十年ばかりむかし、松林左馬助の武芸道場が開かれた町だからだという。             

 松林左馬助は、信州(長野県)の人で、十五のときから浅間山の天狗を相手に武術のはげしい修行をしていた。剣術ばかりではなく槍やなぎなたの術にもすぐれ、あみ出した夢願流は、世にもめずらしい武道として有名になった。「飛んでいるハエの首を切りおとす達人」とか「川端の柳の枝が水の上に落ちるまでに十三個にもこま切りする名人」と、それはそれは評判が高かった。 仙台蕃の二代城主忠宗公は、わが子光宗の剣術指南役として、左馬助に三百石(三十貫文)を与えて召しかかえた。寛永二十年、五十一歳の時だった。 左馬助が六十歳の慶安四年、江戸城の広場で、三代将軍徳川家光公に夢想願流の武芸を披露することになった。 左馬助は、門人の阿部七左衛門道是を相手に組太刀二十番を立ちあい、名剣士としての腕前を存分にお見せした。夢想願流の極意は、打ち込んでくる相手の刀に飛び乗り、足でけり落とす「足譚」の術だ。この日の左馬助の身の軽いこと天狗のようで、あの高い城の屋根のポンと乗ること三べん。袴のすそは小鳥の羽のようのに舞う。将軍はすっかり感心して「コウモリのようじゃ」とほめ、沢山のごほうびをくださった。  

 左馬助は後に「蝙也斎」と名乗り七十五歳でなくなるまで、片平の道場で毎月刀を千回振って修業を続け、門人には熱心にけいこをつけてやった。 茂庭の松林忠男さんは蝙也斎の子孫で、夢想願流の巻物五巻をはじめいろんな古文書を今も大事に持っておられる。


太白見聞録

十一面観音像

<昭和六年、仙台郷土研究会 阿刀田令造先生一行の調査文>

 本尊の十一面観音像は天正年間赤石川より拾い得て之を安置するとある。十一面観音像の相貌も前面か後面か金属のいかなる種類か等判然としない。まことに作の古いものである。後面半ばより少し上に鋲があり、台の少し上に鋲のとれた跡がうかがわれる。此の点から後面にあったものがすでにとれてしまったものであることが判る。台の下は何物かにはめ込む如く出来ている。之もすでにとれてしまったらしい。郷説に慈覚大師時代に赤石山円通寺があったといわれているから、恐らく何時頻廃したか判らないが同古寺の付属物に相違ない。すべてあるもの観音像をはじめ寸尺の無い物である。


大仏岩 坪沼から赤石に通ずる林道に大仏橋がある。橋の西方に奇岩絶壁の一面に自然石の大仏岩があって前の平坦な所にわ大仏堂伽藍のあったところといわれているが、今は自然石の阿弥陀尊の荒廃し尊像を拝することは出来ない。岩下には寛永十七年(一六四〇)に忘れられた大仏岩を発見したときの碑(高さ二尺、横二尺二寸)が現存する。


太白見聞録

夫婦石と硯石

 坪沼に弘法大師が巡錫の折り、御座石という大小二個の石がある。村人達は、これを夫婦石と呼んでいる。古老の話によれば、昔ある若者が小さい石と大きい石が重なっているのを見て上の石を転がした。翌日来て見ると不思議なことに元のように重なっていた。その後これに手を触れる者がなかったという。御座石には弘法大師を祀った祠がある。また、坪沼には弘法大師が石を硯として経文を書いて与えたという硯石がある。硯石の水は干天でも涸れないといわれ、もし攪拌すれば雨が降ると伝えられている。


ふるさとの山〔太白山〕 太白山は標高321m三角形の美しい山容で太古から自然崇拝の神の山として崇められていた。太白山は火山活動で出来た古い山で地質学上はネックと呼ばれ、その出現は富士山と同じ第7代孝霊天皇の御代で一夜のうちに生い出たと伝えられている。山には天狗や山伏が住み山中には砦や寺跡、蝮が棲むなど数々の伝説が語り継がれている。また、太白山という山名は、古書によれば『昔、太白星が地に墜ちて化す云々』とあり仙台蕃の学者が名づけたという。昔から太白山は近海を航行する船の目印であったり、村人は山にかかる雲を見て天候を予知するなど生活と深くかかわってきた山であった。ヒメギフチョウやオオムラサキの生息する太白山へは人来田から東北自動車道に架かる橋を渡れば生出八幡神社の鳥居前の出る。鬱蒼とした杉木立の参道を登ると八幡神社の拝殿である。山腹の南斜面には岩石や大きな石が数多く見られ何か曰くがありそうである。頂上へは急勾配にある鉄の鎖につかまって登ればやがて伝説の貴船神社を祀る山頂である。そこからの眺望は実に素晴らしい。

中国の西安にも太白山がある。 (標高△八仙台3,767.2)


太白見聞録

太白山の熊笹

 生出森八幡神社のお祭り(旧四月二十日)に神社本宮の山腹に自生する熊笹を刈り、五〜六本束ねて自宅の神棚に供えておくと不思議なことに腹痛にならないと昔から信じられている。また、この熊笹で体を撫でたり熊笹を煎じてお茶代わりに飲むと持病が起きないといわれている。

生出が森のあげ餅 例祭で「あげ餅」といわれる白い餅が売られている。この餅を八幡神社に奉納して、代わりに神社で祈祷された餅をいただいて食べると年中息災で過ごせるという。


 現在、作成中しながらHP上で公開していますが、内容について間違いやご意見・ご質問などが有りましたら、事務局までご連絡下さい。また、こんな資料も有るよなど、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご協力下さい。


●参考資料など

●星の街仙台 著者 稲辺勲

●市政だより『たいはく』太白区版【1999・12・15】

●DISCOVER TAIHAKU【ディスカバーたいはく】2号〜5号

2号 『太白区の街道と史跡』

3号 『太白区の伝説』

4号 『たいはく絵ものがたり』

5号 『太白区の郷愁と文化』